アルゼンチンで、障害のある人への給付をめぐる綱引きが1年以上続いています。議会が拒否権を覆して成立させた法律を政府が施行させまいとし、主管機関は汚職疑惑のなかで解体され、2026年4月には給付を絞り込む新法案が上院へ送られました。本稿執筆時点は2026年7月です。
議会が22年ぶりに拒否権を覆した
発端は「国家障害緊急法(Ley 27.793)」です。議会が2025年7月10日に可決したこの法律は、非拠出型の障害年金を「社会的保護のための障害非拠出年金」として組み直し、支給額を最低老齢年金の70%と定めました。受給の根拠は障害者手帳(CUD)の保有で、労働不能の証明は求めません。就労収入が最低賃金の2倍以内なら就労と両立し、公定報酬表(ノメンクラドール)も更新するとしています。
ミレイ大統領は2025年8月4日、財政負担を理由に全面拒否権を行使しました。しかし議会は押し返します。下院が8月20日に172対73(棄権2)、上院が9月4日に63対7で再可決し、法律は9月22日に公布されました。ミレイ政権の拒否権が覆されたのは初めてで、議会が拒否を押し切ったこと自体22年ぶりでした。
成立したのに、動かない法律
ところが法律は素直に動きません。政府はデクレト681/2025の第2条で適用を停止し、裁判所がこれを無効と判断すると、2026年4月末に最高裁へ特別上訴を申し立てました。執行は財政の持続性を損ない「制度的重大性」がある、という主張です。
2026年2月4日の施行細則(デクレト84/2026)も、報道の分析では全18条中8条しか規定していません。年金の財源、報酬の補償、単価の更新といったお金に直結する部分は「未規定」と明示されています。公布されたのに、支払いの根幹だけが空欄のままです。
ANDIS解体という別の軸
主管機関そのものも消えました。2025年8月、当時の国家障害機関(ANDIS)長官ディエゴ・スパニュオロ氏に帰されるとされる音声が流出し、医薬品供給をめぐる8%のキックバック疑惑が浮上。政府は12月30日にANDISの解体を発表しました。捜査は継続中で、司法判断は出ていません。
デクレト27/2026で、障害行政は保健省に新設された「国家障害長官室」へ移ります。アドルニ官房長官は再編で政治任用ポストが16減ると説明しました。一方でチェケアードの分析では、2026年度の障害関連予算は2023年比で実質27%減、年金の支給件数は2025年比で15万5千件少なく見込まれています。
「不正対策」法案が変えようとしているもの
2026年4月18日、政府は「障害年金の不正に対する法案」を上院に送りました。下院より多数派を作りやすいとの判断です。柱は5つ。①全受給者への再登録義務(最低90日、未手続きは自動停止)、②給付名称を「労働不能年金」へ変え、社会モデルから医学モデルへ引き戻す設計、③正規雇用との絶対的非両立、④ノメンクラドールの全国一律単価を廃し個別交渉へ委ねる、⑤ANSES(年金)・ARCA(税務)・SINTyS(社会保障情報)の横断照合と予防的支給停止。緊急法の第5・8・9・14・20条の廃止も含みます。
2026年3月時点で非拠出型の障害年金を受け取っていたのは1,148,484人です。本稿執筆時点(2026年7月)で、この法案が可決されたことを示す情報は確認できていません。上院での審議段階にとどまる、というところまでが確認できる範囲です。
「不正の排除」と「権利の縮減」の境界
不正の存在は否定しにくいでしょう。存在しない住所での登録や根拠を欠く承認が指摘されたのは事実です。論点は、その対策が不正に関与していない大多数の受給者の生活まで揺らすかどうかです。
とくに批判が集中するのが「就労との絶対的非両立」です。職を得た瞬間に年金を失うなら、就労意欲を制度が打ち消します。アルゼンチンでは障害者権利条約(CRPD)が憲法第75条22項により憲法と同等の地位を持つため、批判は憲法論として提起されています。障害者団体や大学のネットワークは「国際人権基準と両立しない後退」だと反対しています。
地域の文脈も添えます。CEPAL・PAHO(汎米保健機構)・RIADISは2026年5月、中南米カリブ10か国を対象に、保健医療と緊急事態対応における障害インクルージョンの報告書を公表しました。データや研修の不足が共通課題です。地域が包摂の底上げに取り組む時期に、アルゼンチンでは逆向きの動きが進んでいます。
筆者の視点
いちばん構造的な争点は、給付の根拠を「障害があること」に置くか「働けないこと」に置くか、だと僕は考えています。日本の障害年金は障害等級に応じて支給され、働きながら受給することは原則として妨げられません。就労できないことを要件に据えるのは日本でいえば傷病手当金に近い発想で、一時的に働けない状態を想定した制度です。障害の永続性を前提に所得を保障する枠組みとは、似ていても目的が違います。
補装具費支給制度を研究する立場から気になるのは、むしろノメンクラドール廃止のほうです。日本では義肢・装具の支給額が「補装具費支給基準」という全国一律の公定価格で定められています。上限超過分は自己負担なので、この基準は「使いにくさ」の源でもある。それでも、どの都道府県でも同じ装具に同じ額が出る一律性は、アクセスの平等を支える土台です。公定単価を廃して個別交渉に委ねれば、保険者の交渉力しだいで同じ車いすや装具に支払われる額が変わり、弱い保険者に属する人ほど自己負担が増えます。公定価格の是非は日本でも論争的ですが、「なくしたらどうなるか」の実例が中南米で走り始めるかもしれません。
コスタリカと対照すると違いはさらにはっきりします。社会保障公社(CCSS)が医療とリハビリテーションを直接提供する仕組みで、保険者と事業者が単価を交渉する構図があまりありません。僕がコスタリカの現場で感じたのは、制度への信頼は保たれている一方、待機の長さや地方部の専門職不足という別の壁が確かにあることでした。ただそれは「制度が足りない」問題であって、「制度の土台が政権交代のたびに書き換わる」問題ではありません。
続報を追うなら、見る点は3つ。第一に、上院の委員会での審議入りと採決の日程。第二に、官報(Boletín Oficial)に再登録の実施要領が出るか——法案の成否とは別に行政手続きが先に動きうるからです。第三に、未規定で残された報酬単価の更新条項に予算措置が付くかどうか。三つ目が地味ですが、事業者がサービスを続けられるかを直接左右します。制度が「ある」ことと「動く」ことの差は、たいてい単価の一行に表れます。
用語メモ
pensión no contributiva(ペンシオン・ノ・コントリブティバ)=非拠出型年金。納付歴なしに支給される。CUD(セ・ウ・デ)=障害者手帳に相当する証明書。invalidez laboral(インバリデス・ラボラル)=労働不能。就労できないことを給付要件に据える旧概念。nomenclador(ノメンクラドール)=障害福祉サービスの公定報酬表。日本の補装具費支給基準に近い。reempadronamiento(レエンパドロナミエント)=再登録。
制度が「ある」ことと「動く」ことの差は、たいてい単価の一行に表れる。
参考リンク
- EMERGENCIA NACIONAL EN DISCAPACIDAD — Ley 27.793(2025年9月22日公布) | Boletín Oficial de la República Argentina — boletinoficial.gob.ar
- Decreto 84/2026 — Reglamentación de la Ley 27.793 | Argentina.gob.ar — argentina.gob.ar
- Discapacidad: 5 claves sobre el anuncio del Gobierno nacional de disolver la ANDIS | Chequeado — chequeado.com
- El proyecto de ley “Contra el fraude de las pensiones por invalidez”, en cinco claves | Perfil — perfil.com
- Análisis crítico del Proyecto de “Ley contra el Fraude de Pensiones por Invalidez” | Observatorio del Derecho a la Ciudad — observatoriociudad.org
- CEPAL, OPS y RIADIS lanzan informe sobre inclusión de personas con discapacidad en salud y emergencias(2026年5月) | CEPAL — cepal.org
※ 本記事は公開情報をもとにした筆者の解説・私見です。最新の数字・日程・手続きは各国政府や一次情報でご確認ください。引用は最小限とし、出典を明記しています。