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エルサルバドルのナジブ・ブケレ大統領が進めてきた、大規模な拘束を核とする「マノ・ドゥーラ(鉄拳)」型の治安政策が、いま中南米各国の政治の言葉そのものを塗り替えつつあります。チリでは2024年の世論調査で42%の有権者が「ブケレのような指導者」を望むと答え、ペルーでも治安の立て直しを前面に掲げた候補が支持を集めました。ところが、このモデルを最も忠実に取り入れようとしたエクアドルでは、犯罪は減るどころか、2025年に過去最悪の殺人件数を記録してしまいました。

何が起きたか

報道によれば、治安の悪化が選挙の最大の争点になっている国々で、ブケレを引き合いに出す政治家や有権者が域内全体で増えています。チリの世論調査の数字は、「同じことをやってほしい」という空気が一過性ではなく地域横断的に広がっていることを示しています。AP通信が2026年6月17日に配信し、NBCニュースやPBSが掲載した記事も、この潮流を「中南米における右派反動の高まり」として伝えています(本稿公開後の報道です)。

背景

エルサルバドルは長年、世界でも有数の殺人率を記録してきた国でした。2022年に始まった「戦時体制」のもとで数万人規模の大量拘束が行われた結果、公式の殺人件数は急落します。この「成功」が衛星放送やSNSを通じて域内全土に伝わりました。治安が最大の関心事になっている社会では、既存政党への不信と結びついて「同じ手法を」という声がふくらみます。右派の候補が治安強化を公約の柱に据える傾向は、地域をまたいで強まっています。

一方、2024年初頭に非常事態を宣言したエクアドルのノボア政権は、刑務所の軍事管理、大規模な拘束、組織の「テロ組織」指定といった手法でブケレ・モデルを模倣しました。しかし2025年の殺人件数は9,216件と前年(7,063件)から約3割増え、殺人率は10万人あたり50.9件と過去最悪の水準を記録しました。刑務所の中では抗争が激化し、軍管理下での拷問の事例を人権団体が記録しています。なお、エクアドル政府は2026年3月の殺人が前年同月比で28%減ったと発表していますが、統計の取り方や人権侵害の実態をめぐる疑問は残っており、モデルの「成功」を語るにはなお早い段階です。

論点/対照

両者の違いは、脅威の性質そのものにあります。エクアドルの組織犯罪は、コカインの密輸を担う越境ネットワークの結節点であり、末端の構成員を収監しても取引そのものは止まりません。プロジェクト・シンジケートの論考(2026年3月)は、こうした構造的な問題を「ブケレ効果がラテンアメリカに広がるリスク」として指摘しています。

CSISなど複数の政策研究機関は、ブケレ・モデルが機能した条件として、人口600万人規模という小さな国土、ブケレ党による議会の超多数、密輸ルートを持たない比較的単純な暴力構造といった要因を挙げています。これらがそろっていたからこそ、エルサルバドルでは大量拘束が効果を出せました。逆に、麻薬経済の規模も人口も領土も桁違いに大きいメキシコ・コロンビア・エクアドルなどで同じ手法を当てはめれば、民主主義の制度的な土台を損ない、深刻な人権侵害を招きながら、それでも犯罪を抑えられないという危うさが高まります。治安への怒りは現実のものですが、選挙公約としての「鉄拳」と、実際の犯罪抑止効果との間には大きな隔たりがあるのです。

筆者の視点

僕がこのテーマに引っかかるのは、「強い手」を求める空気が、結局は最も弱い立場の人たちに先にしわ寄せされるからです。大量拘束は、本当の黒幕ではなく、見つけやすい末端や、たまたまその場にいた人から先に巻き込みます。塀の中の暴力や軍管理下の拷問も、声を上げにくい人たちに集中します。治安が崩れた社会で人々が安全を渇望するのは当然で、その怒りを軽んじるつもりはまったくありません。ただ、安全という切実な願いが、検証されないまま一つの「型」への信仰へと縮められていく過程には、注意深くありたいと思います。

もう一つ気になるのは、「成功例」がどこまで測れているのかという点です。殺人件数の急落という一つの数字だけが国境を越えて拡散し、その裏で起きている拘束の規模や、塀の中の実態、誤認逮捕の広がりといった「見えにくいコスト」は同じ速さでは共有されません。エクアドルが示したのは、密輸ルートを持つ麻薬経済の規模や統治機構の強度といった前提条件が違えば、同じ手法でも結果は反転しうるという事実です。だからこそ僕は、隣国の数字を輸入する前に、その国の暴力がどんな構造から生まれているのかを問う議論こそ注視したいと思います。「隣がうまくいったから同じ薬を」では、人も社会も救えません。

用語メモ

マノ・ドゥーラ(mano dura)はスペイン語で「硬い手」、つまり鉄拳・強硬路線を指す言葉です。中南米では治安強化策の代名詞として長く使われてきました。「戦時体制」とは、ここではエルサルバドルが2022年から続けている例外状態(憲法上の権利を一部停止した非常事態)を指します。

鉄拳の幻想は選挙を動かすが、越境麻薬ネットワークは幻想には負けない。

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参考リンク

※ 本記事は公開情報をもとにした筆者の解説・私見です。最新の数字・日程・手続きは各国政府や一次情報でご確認ください。引用は最小限とし、出典を明記しています。