「装具と杖があれば、間違いなく屋内歩行は自立できる。けれど、装具がなー」
2014年1月30日、僕は任地サンビートの診療所のカルテを前に、ひとりごとを呟いていた。コスタリカに JICA 青年海外協力隊として派遣されてから、4ヶ月が過ぎたころの話だ。
装具なしで退院してくる患者
その日来院されたのは、脳梗塞を発症してから3ヶ月の方だった。腕と手はほとんど動かず、足はまとまった屈伸はできるが細かい動きは難しい段階。触覚も、手足の位置や力の入り具合を感じる感覚もほぼ消えていた。歩くには介助者の支えが必要、椅子に座っているぶんには自力で姿勢を保てる。日本のリハ病院なら、足首からふくらはぎを支える短下肢装具と杖を組み合わせて、家の中なら自分の足で歩けるところまで持っていける段階だ。
けれどコスタリカの公的医療制度では、急性期病院の入院期間は最長でも1ヶ月程度。患者さんはその後、装具も処方されないまま退院し、自宅で「介助下のトイレ移動」と「自己練習」だけを覚えて来院されていた。
町の店で杖は買える。問題は装具だった。「だったら自分で作るしかないか」——そう決めたのが、すべての始まりだった。
部品を求めて町を歩く
参考にしたのは、岩田晴之先生の簡易型短下肢装具。日本ならホームセンターで2,000円程度の材料で組み上げられる構造を、コスタリカの町で揃う部品に置き換える——軽く見ていたぶんだけ、現実は手強かった。金物屋・薬局裏の医療品屋・ホームセンターらしき店をひと通り回っても支柱用の材料は見当たらず、結局、設計図を起こして町外の業者に注文することになった。費用は約8,000円。給与の大半が現地生活費に消える協力隊員にとって、自費出費としては痛い金額だった。
それでも前に進める理由は、シンプルだった。この患者さんの歩行は、装具がなければ始まらない。
完成
2014年2月11日、金属支柱付き簡易短下肢装具が完成した。装着して歩いてもらうと、それまで「膝が痛い」と漏らしていた患者さんが、しばらく歩いたあと不思議そうな顔で「痛くない」と言った。試行錯誤の重みが、少し軽くなった瞬間だった。
📐 装具のパーツ構成(金属支柱・サンダル底・肘プロテクター)、材料コスト、裸足/装着時の歩行比較などの技術ディテールは、技術編にあたる ⑫「コスタリカで自作した簡易短下肢装具の作り方」 に整理した。
寄付で届いた装具と「SHB一辺倒」の現実
そこから半年ほど経った2014年7月、日本の 「途上国にリハビリ道具を届けよう」 プロジェクトを通じて、プラスチック製+両側に金属支柱が入った短下肢装具と、タマラック足継ぎ手付き短下肢装具を寄付していただいた。タマラック足継ぎ手とは、装具の足首部分に組み込む樹脂製のジョイントで、歩くときに足首が前後に自然にしなるようにする仕組み——SHB のような一体成型の装具より、より自然な歩行を助けられる。日本では使われずに病院の物置で眠っている装具が、コスタリカの患者の元へ届いた瞬間だった。
寄付された装具を任地の同僚に紹介してまわって気づいたのは、コスタリカで脳卒中後に公的処方される短下肢装具は SHB(プラスチック型のシューホーン・ブレース)が標準で、足継ぎ手付きをほとんど見ないことだった。装具のバリエーションを「知らない」のではなく、「制度上選択肢として存在しない」状態に近い。SHB は構造がシンプルで安価、限られた医療予算の中では合理的だ。ただし、足継ぎ手付き装具のほうが適切な患者像も確実に存在する——そのギャップを、どう埋めるのか。
当時の自分は、ノートにこんな問いを書きつけていた。
装具を持っていない患者も多い中で、装具の質にこだわり過ぎるのもダメなのか?
制度・予算・人材育成、そして現場の優先順位——すべてが絡み合った問いだった。10年以上経った今でも、簡単な答えは持てていない。
8ヶ月待ちの公的装具
並行して、僕の患者さんの公的装具の製作も進んでいた。診察 → 申請 → CENARE での製作、というルートで、待ち時間は8ヶ月。
2014年9月12日、ようやく公的装具が届いた。コスタリカのトップリハ施設で製作された装具だ。期待していなかったわけではない。けれど受け取ったときの率直な感想は、「自分の期待よりも、ずっと素朴な仕上がり」だった。SHB に近い構造で、足継ぎ手は付いていない。手作業の跡が残った、シンプルな装具だった。
それでも、装具が無料で製作できる制度の存在を知らない患者さんが多いコスタリカで、ひとりの脳卒中患者と最初の問診から装具受け取りまで寄り添えたこと自体は、収穫だったと思う。患者さんはこの後、地域の主婦会で「自分の人生」を発表する機会があり、そこにリハビリの大切さや装具制度の話を乗せてもらった。発表の場で、装具を履いた患者さんは、自分の足で立っていた。
装具なしでもできること
2015年2月、また別の患者さんが診療所に来られた。右半身が重い麻痺で、腕も手も足もごくわずかにしか動かない。それに加えて、言いたいことは頭にあるのに言葉として出てこない症状(運動性失語)もあった。日本なら、いったん膝まで覆う大型の装具(長下肢装具)で脚全体をしっかり支えながら歩行練習を始め、回復に応じて短下肢装具へ段階的にサイズダウンしていく——という想定の病態だ。
けれど、この患者さんに公的装具を製作する見込みは立たなかった。年齢・社会的状況・診断書の壁——コスタリカではすべてが揃わないと制度に乗せられない。装具がない、という前提から始める必要があった。
JICA からの支援でニーブレース(膝を支える筒状のサポーター、スポーツ用品店でも手に入る市販品)を購入し、足首はぐらつきを抑えるため弾性包帯を巻いて代用した。学生時代に勉強した包帯の巻き方が、こんな形で活きることになるとは思っていなかった。十分な環境ではないけれど、装具のない国の装具の代わりとして、なんとか機能した。
装具一つの有無で、患者さんの歩行の景色は大きく変わる。それは日本で働いていた頃から知っていたつもりだった。コスタリカで知ったのは、装具がない場所では、装具を補うすべての知識・技術・人間関係が動員されるということだった。
残った問い
コスタリカで装具に関わって、自分の中に残った問いはいくつかある。
- 限られた医療予算の中で、装具のバリエーションをどこまで広げるべきか
- 義肢装具士の人材育成と地理的偏在を、どう解消するか
- 装具の存在自体を知らない患者・家族に、誰が情報と「制度の入り口」(書類・診断・搬送)を届けるのか
これらは僕が10年後に研究テーマとして関わり続けることになる、補装具・障害政策の議論に直結する問いだった。当時はまだ整理できていなかったけれど、サンビートの小さな診療所で、設計図を書きながら町を歩き回って部品を探しながら、たぶん最初の輪郭は描かれていた。
2015年8月、隣町から老夫婦が来院された日のメモが、今も手元に残っている。脳卒中後9ヶ月の旦那さん、限界を迎えていた奥さん。十分な時間のリハビリと装具と杖があれば、また歩ける可能性のある段階。けれど装具製作には半年以上、無料リハ施設はほぼない、僕の派遣期間も残り少ない。「あそこには素晴らしい PT がいるから大丈夫」と無責任な言葉を添えて診断依頼が回ってくる現実の前で、新しい車椅子の書類、装具製作開始の書類、首都でのリハ受診の書類、奥さんへの介助指導、自宅での練習方法だけを置いて、診療を終えた。
老夫婦が次に医療サービスにアクセスできるのは、1年後か、2年後か。何もかもが遅すぎる。あの日カルテに走り書きした言葉は、いまも自分の研究の出発点になっている。
同僚と「Casa de Rehabilitación」
赴任から1年ほど経ったころ、診療所に同僚の理学療法士が加わった。それまでひとりで抱えていた診療と装具の話を、一緒に考えてくれる人が現れた瞬間でもあった。「自分が居なくなったあともリハビリを続けられる仕組みをどう残すか」という問いに、彼女の存在は大きな救いだった。
診療所の看板には “Casa Atención a la Persona con Discapacidad”(障害のある方のための医療所)と書かれていたが、僕は日々この場所を “Casa de Rehabilitación”(リハビリの家)と呼んでいた。気がつくと、同僚も患者さんもその呼び方を使うようになっていた。看板に書かれた名前ではなく、そこで実際に行われていることが、場所の呼び名を決めるのかもしれない——僕にとって診療所が「Casa de Rehabilitación」になった瞬間は、装具を一つ一つ作っていた日々のどこかにあった気がする。
あれから十年以上が経った。いま僕は日本で、補装具と障害政策の研究を続けている。机に向かってデータを眺めているとき、町を歩いて部品を探した午後の景色や、装具をつけた患者さんが漏らした「痛くない」という声、同僚と交わした診療所での会話が、ふいに立ち上がる瞬間がある。
あの「Casa de Rehabilitación」の日々が、いま自分が向き合っている問いを、静かに支えている。
背景情報(一般情報)
※本セクションは公開情報をもとに編集者が補足したものです。最新の制度は公式情報でご確認ください。
短下肢装具(AFO)の主な種類
- SHB(Shoehorn Brace): プラスチック一体型のもっとも基本的な短下肢装具。軽量で安価、足関節の動きはほぼ固定
- タマラック足継ぎ手付き: 足関節を背屈方向のみ自由にする継ぎ手を組み込み、より自然な歩行を支援
- 金属支柱付き: 両側または片側に金属支柱を組み、足継ぎ手と組み合わせて頑丈な構造に。重量は増すが調整自由度が高い
- 簡易型短下肢装具: 既製パーツを活用して安価かつ短期で製作する装具。リソースの限られた地域で機能訓練の"つなぎ"として価値が大きい
コスタリカのリハビリ・装具供給制度
- 公的医療保険: CCSS(Caja Costarricense de Seguro Social)が運営。脳卒中後の入院期間は急性期で1ヶ月程度が目安
- 装具の公的供給: 国立リハ施設 CENARE(Centro Nacional de Rehabilitación)を中心に製作。受診から完成まで数ヶ月〜半年以上かかる例が多い
- 地理的偏在: 装具製作・リハ専門人材は首都サンホセに集中、地方では選択肢が限られる
- 家族支援: 退院後のリハビリは家族介護に依存する割合が大きく、自己練習指導とポジショニング指導の比重が高い
簡易装具・低コスト装具の意義
- 正式装具の調達期間中、機能訓練を遅らせないための"つなぎ"として臨床的価値が大きい
- WHO の Priority Assistive Products List(2016)でも、地域に適合した補装具供給の重要性が強調されている
- 低・中所得国における補装具普及率は、依然として WHO 推計で必要量の 5〜15% 程度と低い水準にある
参考リソース
- WHO — Priority Assistive Products List
- CCSS(コスタリカ社会保障基金)
- Ministerio de Salud Costa Rica(コスタリカ保健省)
- JICA 海外協力隊
※装具の選定・調整は必ず医療従事者の判断のもとで行ってください。本記事は個人の経験記録であり、特定の治療法・装具を推奨するものではありません。
装具学を体系的に学び直したい方へ
本文で触れた短下肢装具・足継ぎ手・SHB などの構造を、実際の臨床判断の文脈で押さえ直したいとき、僕がいつも戻ってくる定番書がある。日本整形外科学会・日本リハビリテーション医学会監修、養成校・現場ともに広く採用されている標準テキストだ。
