2025年4月26日。磐梯吾妻スカイラインの、まだ雪の壁が残る道を抜けて、僕は宮城県石巻市へ向かっていた。XSR900で東北を走るツーリングの途中だった。石巻に「震災遺構」があると知って、一度この目で見ておきたいと思っていた。
震災遺構・門脇小学校
石巻で一夜を明かした翌朝、僕は門脇小学校の前に立っていた。
石巻市立門脇小学校は、東日本大震災の津波火災の痕跡を残す、唯一の震災遺構だ。外壁は焼け、窓は黒く抜けている。それでも校舎は建っている。
2011年3月11日、地震のあと、校内にいた児童は教師に導かれてすぐに裏山の日和山へ避難した。下校後に戻ってきた子も含め、275名の児童が丘へ上がり、助かった。校舎のほうは、津波が運んだ瓦礫と、漂着した車から出た火で焼けた。2022年4月、ここは震災遺構として一般公開された。
丘の上で出会った人
校舎を見たあと、僕はなんとなく裏手の丘へ続く道を上っていった。墓地のある、静かな丘だ。そこで、一人のおじさんと話すことになった。
おじさんが最初に話したのは、スロープのことだった。
「車椅子のお婆さんを、この丘の上まで押すのは、本当に大変だったんだ。だから震災のあと、スロープを広げてもらった」
階段の脇に、たしかに後から付け足したようなスロープがあった。——僕は補装具やバリアフリーを仕事にしている。だからこの一言が、すっと胸に入ってきた。避難と、バリアフリーは地続きなのだ。丘の上の安全は、丘を上れる人にしか届かない。
その人が語ったこと
おじさんの話は、静かに、しかし途切れずに続いた。
「地震が収まって、みんな一度は家に戻ったんだ。——その時、津波が来た」
津波は、おそろしい量の漂着物を運んできた。ちょうど小学校に突き刺さるように。「何百年、焚き火に困らんだろうな」と思うほどの量だったという。だが、火の手が上がった。逃げようとした車のガソリンに引火し、火は広がった。あの日は東風が吹いていたから、校舎の東側——右側が、特に焼けた。
「税金の関係で、みんなちょうど車を買い替えたばかりだった。だから、それで逃げようとしたんだろう。——でも、みんな流された。中学生と小学生の子どもが乗った車も」
丘へ避難した門脇小学校の児童は助かった。けれど、車で逃げようとした地区の人たちは、そうではなかった。同じ町の、同じ日の、別の結末だ。
震災のあと3日間は、助けに行けなかったという。炭のように燃えた木材が、まだ燻っていたからだ。3日目、ようやく自衛隊が校庭に入っていった。「もう入れるんだな」と、おじさんは思ったという。
隊員たちは、流れ着いた車を一台ずつ確認していった。その作業の最中に隊員が交わしていた言葉を、おじさんははっきり覚えている。
「車の中をよく見ろ、大腿骨が残っているぞ」
——そういう状況だったんだよ、とおじさんは淡々と言った。声を張るでもないその口ぶりが、かえって、あの日の重さを伝えてきた。
忘れられていく、ということ
おじさんは、語り部がこの丘で話をするのだと教えてくれた。少しでも話しやすいようにと、生い茂る竹を刈っているのは、彼自身だった。
丘から町を見下ろして、おじさんは言った。
ここから見える景色は、私が子どもの頃の風景に、そっくりになったよ。何もないだろう。いろんな建物が建っているが、あんなのはテーマパークみたいなものでね。忘れられていくんだ。……人を集める工夫が、必要なんだよ。
震災遺構は、ただ建っているだけでは、いつか風景になじんで見えなくなる。忘れないために、人が足を運び続ける仕掛けがいる。僕がこの記事を書いているのも、その「工夫」のごく小さな一つのつもりだ。
海は、静かに綺麗だった
門脇小学校を後にして、僕は石巻市の東、三陸のリアス海岸をXSR900で走った。入り組んだ入り江に、養殖の筏が静かに浮かんでいる。海は、おどろくほど穏やかで、綺麗だった。
14年前、この海が町をのみ込んだ。その同じ海が、いまはこんなに静かに光っている。それを「美しい」と書いてしまっていいのか少し迷う。でも、綺麗だった。おじさんの語りも、この海も、両方とも本当のことだから。
丘の上のスロープ、おじさんの竹刈り、語り部の声。どれも、忘れないための小さな手入れだ。東北をツーリングするなら、絶景の道の途中に、こういう丘が一つあってもいい。
石巻には、もう一つの震災遺構がある。同じ日の午後に訪ねた大川小学校のことは、別の記事に書いた。