← 一覧に戻る

2025年4月27日。その日の朝、僕はXSR900を石巻の門脇小学校の丘に停め、震災遺構の脇で、語り部のために竹を刈るおじさんの話を聞いていた。同じ日の昼すぎ、僕は北上川をさかのぼるように走って、もう一つの震災遺構へ向かった。石巻市立大川小学校。川の河口にほど近い、堤防のそばの学校だ。

大川小学校へ行く道は、自然と「三角地帯」を通ることになった。三角地帯——あの日、子どもたちが避難先として向かおうとした場所だ。新北上大橋のたもとの、少しだけ高くなった土地。名前だけを地図で見ていたときは、もっと内陸の、丘のような逃げ場を思い描いていた。けれど実際に走ってみると、そこは驚くほど北上川のすぐそばだった。川と、ほとんど地続きの高まりにすぎなかった。

川のそばの学校

大川小学校の校舎は、広い校庭の向こうに、低く長く横たわっていた。「石巻市立大川小学校」と刻まれた校名標柱は、いまもそこに立っている。

石巻市震災遺構 大川小学校の校名標柱と崩れた校舎
「石巻市立大川小学校」の校名標柱。崩れた校舎の手前に、いまも立っている。

近づくと、校舎の壊れ方の激しさに、言葉が出てこなくなる。二階の渡り廊下が、根元から折れて、地面に突き刺さるように垂れ下がっている。円い校舎の壁は崩れ、鉄筋がむき出しになり、窓は黒く抜けていた。

折れて垂れ下がった大川小学校の二階の渡り廊下
折れて垂れ下がった二階の渡り廊下。津波の力が、そのまま残されている。

2011年3月11日、この学校で、全校児童108名のうち74名、当日学校にいた教職員11名のうち10名が、津波の犠牲になった。校舎の前では、訪れた人が線香をあげていた。

地震が起きたのは、午後2時46分。津波がこの学校に届いたのは、およそ50分後の3時36分ごろとされている。その50分のあいだ、児童たちは校庭で待っていた。どこへ逃げるか——校庭で話し合いが続き、やがて、川沿いの三角地帯へ向かうことが決まる。列が動きはじめた、その直後に、津波は来た。さっき僕が通ってきた、あの川のそばへ。

置かれた言葉

校庭のふちには、いくつかのプレートと石碑が置かれている。そのひとつに、こう刻まれていた。

ここには町がありました/生活がありました/いのちがありました/子どもたちが走りまわっていました
大川小学校の校庭に置かれた「ここには町がありました」のプレート
校庭のふちのプレート。「ここには町がありました」——その向こうに、校舎と校庭が広がる。

崩れた校舎のすぐ前、丸い窓の並ぶ壁の手前には、もう一枚のプレートがあった。

2011年3月11日
いつもと同じ朝でした
「行ってきます」の後ろ姿を見送ったあの日
「寒かったでしょう」とあたたかい手で抱きしめてあげたい
大川小学校の校舎前に置かれた3月11日のプレート
校舎の前に置かれたプレート。「いつもと同じ朝でした」という一行から始まる。

——いつもと同じ朝。その一行の前で、足が止まった。あの朝、ここに通う子どもたちは、ふだんと変わらず家を出てきた。「行ってきます」と言って。校歌を刻んだ石碑も、すぐそばにあった。校庭にいるあいだ、僕の胸は、ずっと締めつけられていた。

登らなかった山

校舎のすぐ裏には、山がある。あの日、子どもたちが登らなかった山だ。斜面には、津波がここまで届いた、という高さを示す印があった。見上げると、ずいぶん高い。それだけ巨大な水が、この谷を満たしたということだ。

大川小学校の校舎裏手の山の斜面
校舎の裏手の山。斜面には、津波の到達した高さを示す印が立てられている。

後の検証では、この裏山にも、比較的ゆるやかに登れる場所はあったとされる。けれど、その日その場で見上げた斜面は、急に見えるところも多かった。大きな揺れのあと、来るかどうかも分からない津波を前に、低学年の子も、学校に避難してきたお年寄りもいるなかで、一瞬で「全員、この山へ」と決めること。それがどれほど難しかったか。僕には、その場の判断を責める言葉が、見つからなかった。

事前の備えということ

だから、と思う。本当に問われるべきなのは、あの校庭の50分そのものよりも、もっと手前にあるのではないか。その日が来る前の、「備え」のほうに。

校庭の一角に、大川震災伝承館がある。2021年に開かれた、木造の建物だ。中に入ると、地震から津波が届くまでの児童と教職員の動きが、時間を追ってパネルで示されていた。裁判のことも、展示されていた。

仙台高等裁判所は2018年、市と県に、学校の防災体制そのものに不備があったと認めた。学校の危機管理マニュアルに、津波のときに逃げる具体的な避難場所が書かれていなかったこと——それを、組織としての落ち度だと判断した。2019年、最高裁がこの判決を確定させる。学校の「事前防災」の不備を、司法がはっきりと認めた判決だった。

僕は補装具やバリアフリーの仕事で、防災や避難に関わることがある。逃げる場所をあらかじめ具体的に決めておくこと。それを紙に書き、職員のあいだで分かちあっておくこと。平時にはひどく地味で、つい後回しになってしまうその作業が、いざというとき、いのちの分かれ目になる。大川小学校は、そのことを、これ以上ないかたちで伝えている。

それでも、訪ねてほしい

伝承館を出るとき、震災ガイドの案内が掲げられていた。決まった時間に、スタッフが校舎を解説してくれる——そう書いてあった。けれど僕が着いたのは、ちょうどその時間とすれ違うころで、解説を聞くことはできなかった。

大川震災伝承館は、いまは入館無料で、朝9時から夕方5時まで開いている(水曜定休)。施設スタッフによる解説はいったん休止していて、語り部の話は「大川伝承の会」などの団体に申し込むかたちになっている。もしこれから大川小学校を訪ねるなら、できれば、その解説を聞ける時間に合わせて行ってほしい。同じ校庭でも、聞いてから見るのと、ただ見るのとでは、受け取るものがきっと違う。

門脇の丘で、竹を刈っていたおじさんは、「忘れられていくんだ」と言っていた。震災遺構は、ただ建っているだけでは、いつか風景になじんで、見えなくなる。誰もいない大川小学校の校庭に立って、僕は同じことを思った。ここには町があり、生活があり、いのちがあった——そう刻んだ人たちの言葉を、次に来る誰かへ手渡すこと。それが、訪ねた者にできる、ささやかな「備え」なのだと思う。

訪問メモ

参考リソース

今回訪れた場所

1
石巻市震災遺構 大川小学校
宮城県石巻市釜谷 / 北上川の河口近くに建つ川沿いの学校。2011年の津波で児童・教職員84名が犠牲に。2021年7月、校舎などを残して一般公開。大川震災伝承館を併設(開館9:00〜17:00、入館無料、水曜定休)。
2
三角地帯(新北上大橋のたもと)
宮城県石巻市 / あの日、子どもたちが避難先として向かおうとした、北上川沿いの少し高くなった場所。学校から西へおよそ200m。